夢とテーゼの話

開設してもうすぐ3年半、そのわりに記事は20程度しかありませんが、累計アクセス数が1000を超えて1079になりました。

これは1000回自分で見てたとしても79回は誰かが見てくれているってことで、大変ありがたいです。

あくまで自己満足のために書いていますが、興味を持ってくれる人がいたり、話題に出してくれる人がいるというのはそれに越したことはないので、何卒よろしくという気持ちです。

 

今日は夢の話と、少し難しい話の2つをします。

まずは先日、休みの日に見た夢の話です。

寝ているのと起きているのが曖昧になるくらいゆっくり眠れる日は、夢を見がちな気がします。

 

それは大切な人と2人で水族館へ行く夢でした。

深い青に輝く水槽を2人で眺めていて、僕が「たくさん思い出を写真に残したかったのに、スマホの容量がいっぱいで写真が撮れないよ!データを整理しておけばよかった!」なんて話している、ただそれだけの夢でした。

スマホのデータを整理しろというのは肝に銘じておきたい教訓ですね。自戒にも思えます。

 

夢の登場人物というのは往々にして "自らの記憶の中にある特定の人物像" を伴って現れますが、この夢に出てきたのは見知った人の姿をしておらず、"大切な人である" という情報だけが概念的に脳に知覚されるような、そんな存在でした。

この夢にはちょっと不思議な感覚があって、一緒に水族館へ行ったその "大切な人" は今はもうどこか会えないところへ行ってしまっていて、過去の思い出の、その回想の中に居るような心地がしていました。

 

夢の内容自体は特にどうでも良かったのですが、その日調べていたことが偶然にも夢の内容とリンクしたように思えたので、ここからはその話です。

 

その日僕は「アンチテーゼ」という言葉について調べていました。

急に難しい話になりますが、アンチテーゼは哲学用語だそうです。

僕の解釈では「ある事柄を肯定的に主張し、又は定義付けたもの(テーゼ)に対して唱える否定的な主張」がアンチテーゼです。

正直難しくてしっかり理解出来てないんですけど、多分おおよそは合ってます。

 

わかりやすく例えると、

「白くてふわふわのポメラニアンを飼えば人は幸せになれる!」という肯定的な主張(テーゼ)に対して、「私は犬アレルギーだし、そうとは限らないわ」という否定的な主張がアンチテーゼになると思います。

 

そしてここで出てきたテーゼという言葉、気付いた人は気付いたと思うのですが、有名な作品に使われています。

残酷な天使のテーゼ」という曲です。

あまりにも有名な曲ですが、よく考えるとその曲名の意味を理解していないことに気付きました。

 

調べたところ、「残酷な天使のテーゼ」というのは

「君という天使はいつか残酷に離れていってしまうけれど、今は幸福を与えてくれる存在でもある」

といった趣旨の肯定的主張(テーゼ)が込められた曲だそうです。

 

もしこの主張をアンチテーゼ的に言い換えるとすると、

「君と過ごす幸せな時間にも、いつか必ず終わりが訪れる」

ということになると思います。

言うなれば「天使のアンチテーゼ」です。

 

僕が夢で見た世界で、一緒に水族館へ行った大切な人はもう会えない人になっていました。

大切な人というのは、いずれ必ず自分の前から姿を消すものです。

それは「裏切り」だとかそういう思春期の少女思想的なことが言いたいわけでもなければ、「どうせみんな最後には私が必要なくなるのだわ」とかいう自己卑下が言いたいわけでもありません。

離別にせよ、死別にせよ、この世の全てには終わりがあるということです。

別れというのは悲劇として描かれがちですが、僕はそういった別れの方にこそ美しさがあると思ってしまいます。

終わりがあるからこそ美しく、終わりが訪れることこそ美しいと思う心はある種の破壊衝動なのかもしれません。

 

別れは誰もが経験することです。

美しいとかなんとか言いましたが、当事者にしてみれば耐えられたものではないと思います。

でも長い時間をかけて、その苦しみも大切にしまっておけるようになれたら、そんなに素敵なことはないのではないかと思います。

そうやって人生を少しずつ前へ進めていきたいところですね。

そんな話でした。

1hライティング

1時間でどれだけ散文を書き散らかせるかのチャレンジです。

今日という日の残りを全て使い切ってこれを書き、投稿したら眠ろうと思います。

 

最近繋がった人はこのブログの存在をそもそも知らないのでしょうが、僕は本当に文章を作り上げるということが苦手らしく、書こうと思っても中々筆が進まないので殆ど更新ができていません。

そんな現状と、最近は気持ちの整理がつかないことが多いので、少しでも心がフラットになっている状態のときに頭の中の情報を吐き出す活動をやっておいた方が良いだろうという、この2点を踏まえての記事です。

頭の中の情報を吐き出すと言っても、特にこの瞬間何かを脳内に抱えている訳では無いので、単にアウトプットの感覚を得たいだけなんですけどね。

Twitterを見ているとよく "1時間という制限時間の下に創作活動をする" みたいなタグを見かけるので、そのパクリをやりたかったということでもあります。

 

書き始めたはいいですが、何かテーマがないと書きにくくて仕方が無いですね。

人は話題が見つからないとき往々にして天気の話をするものなので、最近涼しくなってきましたねという話をとりもあえずに。

以前にどこかで話したことですが、社会人になってからというもの季節の移り変わりが本当に速く感じられます。特に夏。

僕は夏が一番嫌いなのですが、近頃は「夏を何とか乗り切った」という感覚が驚くほどありません。

学生時代に比べて屋外で過ごす時間が格段に減ったからだと思います。

気がつけば夏バテも無いうちに夏が終わっています。

去年や今年は特に外出することもはばかられるような時勢だったので尚更かも知れませんね。

これから涼しくなって僕の大好きな冬が来るのは待ち遠しいですが、今年の夏はお祭りも、花火も、何もなかったので季節にぽっかりと穴が空いたようです。

近頃は本当に、振り返れば暗い話ばかりになってしまいますね。

いつかいつかと震えながら来もしないその日を待ち焦がれる様がまさに人生という感じで良いですね。

人は懊悩を乗り越えるほど深みが増していく生き物ですからね。頑張りましょうね。

 

あと20分も残っています。

時間の申告をするとライブ感が出ますね。

想像していたより遥かにつまらない話しか書けないな。

 

内容を決めあぐねていたら残りが10分になりました。

 

そういえば近いうちにAppleMusicに加入しようと思っています。

元々音楽を聴くのは好きで、好きな歌手はCDを買ったりしているのですが、開けて聴くまでの腰があまりに重くて。

あらゆることに言えるんですけど、物事に取り掛かるときのハードルって下げられるなら下げた方がいいと思うんですよね。

一人暮らしを始めてから、生活の中でそういうことを意識するようになった気がします。

ハードルが高くても取り掛かれるエネルギーこそが自律だと言われれば何も言い返せませんが…。

音楽のサブスクにはいずれ入りたいと思っていたので、これを機に音楽を聴く時間が増えていけばいいなと思います。

また使用感など話す機会がどこかであるかもしれませんね。

動画サイトに上がっていない曲とかも聴けるようになると思うので、おすすめの一曲があれば教えてください。

 

もっと中身のある話を書くつもりだったんだけどな…。

少年期の夏

今週のお題「わたしの自由研究」

ということで、はてなブログは週に一度ブログのお題を提示してくれるわけなんですが、たまたま目に付いたので、軽はずみにも乗っかってみます。

これを書き終える頃に今週が今週のままである気が毛頭しませんが。

 

自由研究、恐らく地域差なんてのは無いと思うのでみなさん一度や二度は経験してると思います。

読書感想文に比肩する夏の課題二大巨頭の一つですよね。

そういうのが好きな人にとっては楽しくてたまらないんでしょうが、昔の僕は創造力に欠ける子供だったのでアイデアを絞り出すのに毎年苦労していました。

 

美術の授業なんかは特に苦痛でした。

作品作りに取り掛かるまでの時間が誇張ではなく他人の5倍や10倍は掛かっていた印象があります。

手先は器用な方なので、軌道に乗れば悪くないものが作れたんですけどね。

中学の頃に一度、職員室だか校長室だかの前に作品が飾られたことがあって、その事を教員たちからやけに言及されるので面倒に思っていた記憶があります。

今にして思えば誇らしいことですが。

 

この「取り掛かるまでが長い」というのが自由研究にも効いてくるわけです。

何となく妥協ができない性格というのもあるんでしょうけどね。

やるからには拘りを以て良いものを作りたい、みたいな。

その辺は現在に至るまで一貫してそんな感じですね。

反面、その気が無いときは完全に手を抜くんですけどね。

 

じゃあ自分の自由研究ってどんなことやったんだろう、って考えたんですけど、朧気にしか覚えてないんですよね。

でもなんか葉脈標本を作った記憶はあります。

葉っぱを重曹か何かで煮てやった後にブラシで肉を落とすと綺麗に葉脈だけが残るっていうやつ。

自由研究じゃない何かでやったやつかもしれないですけど。

完成品どこやっちゃったんだろうな。

 

じゃがいもからデンプンを抽出するなんてのもやったことがあります。

どうやってやったのか完全に忘れましたけど。

抽出したデンプンって要は片栗粉なので、水に溶かすとダイラタンシー流体ってのができて、しばらくそれで遊んでた記憶があります。

ダイラタンシー流体は、でんじろう先生とかがやりがちな、白い液体の上を必死に足踏みすると上を歩けるよっていうあれのことです。

詳しくは調べてみてください。チキソトロピー流体というのも併せて調べると面白いです。

 

こうして考えると、単発で手っ取り早く出来る大したことないものが多いですね。

あとは何か、月の観察とか、ザリガニの観察とか、そういう適当に捏造できそうなものを、さもやった風に書いていた記憶があります。

観察系の自由研究をやるときは休みの終わりがけでもうほとんど自棄になるような局面でした。

所謂苦し紛れです。

ギリギリでも何とか提出していただけ偉いと思います。

 

こうして昔のことをあれこれ追憶していると、やはり少年期の夏というのは輝かしいなという感じです。

青い空に色濃く浮かぶ雲、焼けるような陽の光、扇風機の風、鉢植えの朝顔、ベランダから見る花火、その全てが鮮やかで、戻らない夏のことばかりが頭に浮かんできます。

 

みんなが幼かったころの夏の思い出も、聞いてみたいです。

 

ところでこの記事、2019年の9月に書き始めたらしいです。

気が付けば1年も寝かせてしまいました。

"今週の" お題とは何だったんでしょうね。

今でこそ関係の無い仕事をしているが、僕は中高理科の教員免許を所有している。

しかし、幼い頃の僕は、教師という存在について良く思っては居なかった。

そんな僕にも、唯一にも近く心から尊敬した、尊敬したという表現が適切かはわからないが、憧れのような感情を抱いた教師が居た。

僕が一度は教職の道を志し、教員免許を取得するに至ったのも彼との出会いによるところが大きい。

 

それは小学六年のときの担任だった。

溌溂として誰にでも好かれるような、いかにも人気の教師という印象で、事実にもその通りだったように記憶している。

彼は教員歴一年目で、僕の居る学級を受け持ったのが初仕事らしかった。

当時の彼の年齢を現在の自分が既に追い越しただろうことを思うと感慨深い。

 

そんなことはさて置き、僕が彼の教育を受ける中で鮮烈に印象に残っている授業がある。

 

僕の通う小学校は1クラス30人程度の編成だった。

それだけ多くの小学生が集まればクラスに1人くらいは所謂問題児が居るもので、僕の所属するそこも例に漏れず問題児を抱えていた。

件の少年はゲーム好きで、勉強のことはまるで頭に無いといった様子だった。

しかし、担任の教師と関わる中で、少しずつ勉強への意欲を見せ始めていた。

 

何のきっかけかは記憶にないが、ある日その教師は少年に向かって言った。

「バケツに水を汲んでこい」と。

少年は言われるがままに水を汲んで戻ってくる。

それを教壇の前に置かせると、今度は空っぽの小さい容器を持って立つように指示する。

「いいか、その容器がお前の脳味噌だと思え」

そう述べると彼は少年の持つ容器に少しずつ水を注いでいく。

「お前の頭にはゲームの知識がこれだけ入っている。ここに国語や算数の知識を入れようとするとどうなる?」

水は容器から溢れ、床には水溜りが出来ていくが彼は水を注ぐ手を止めない。

ようやく手を止めると、彼は少年に向かってこう言い放った。

「脳に入れることのできる知識には限りがある。お前の頭に勉強の知識が入っていかないのは、そういうことだ。」

その言葉は年端もいかぬ小学生を納得させるには十分な説得力を孕んでいた。

当時の僕も甚く合点がいったようだった。

 

僕はそのときのことをずっと覚えていて、いつもどこか頭の片隅にはその言葉が在った。

そしていつしか色々なことを考えられる年齢になり、僕はその言葉の違和感に気付き始めた。

人間の脳を小さな容器に例えたその違和感に。

 

確かに、覚えていられる知識の量に限度を感じることもある。

しかしそれは生来与えられ予め容量の決まった、変えられないものなのだろうか?

個々の研鑽によってその容量は大きく鍛えられるものではないだろうか?

そう気付いたときには、もう遅かった。

僕は自分の脳を容量不可変の小さな入れ物だと潜在的に思い込んでしまっていた。

それ以来、僕はできるだけ、今生きるために本当に必要な知識の他は捨ててしまおうとするようになっていたのだ。

 

これは学校という場所に限った話ではないが、人格を形成する上で、周囲の大人の発言は意図せぬところに影響を及ぼすことがある。

悪意を孕まぬ心情や、善意のもとに発せられた言葉が、相手の人生にとって消えない毒のように纏わることもある。

その毒を如何にして乗り越えていくかが、人生にとって最も大きな艱難の1つであると僕は思う。

表現方法と解像度

自己表現の方法っていうのは様々あって、例えば言葉にするとか、絵にするとか、音楽にするとか、踊りにするとか、顔色を変えることだってその一つです。

或る人が「言葉の解像度」という表現をしているのを耳にしたことがあります。

解像度っていうのは一般的に画像の粗さ細かさを評価する物差しとして使われるもので、解像度が高い画像ほど細やかで美しいということになります。

言葉の解像度というのはこれを「言葉が持つ意味の繊細さ」に置き換えたもので、繊細な表現ほど言葉の解像度が高いということになります。

この "解像度" は言葉に限らず表現方法の全てに存在すると思うんです。

その定義付けは結構難しいところなんですが、繊細であったり、鮮明であったり、情報量が多かったりするものが解像度が高いものであると言って概ね良い気がします。

そして、それぞれの表現方法に、得意とする解像度帯みたいなものがあって、言葉なんかは突き詰めていけば極めて解像度の高い表現が出来ると思います。

要は、たくさん言葉を覚えれば複雑な気持ちをより正確に言い表せるってことです。

対照的に、音楽(歌詞の無いもの)は低い解像度を保ったまま抽象的に表現することを得意としていると思うんです。

音楽が「悲しい」と言わなくとも聞き手は悲しみを感じ取ることができる、"何となく" でそう感じさせることができてしまう。

その情報は本当にぼんやりとしていて、しかし確かに感じることができます。

その感じ方は人の感性に依存し、よって千差万別ですが、大きくズレが生じるなんてこともありません。

これって凄く面白いと思うんですよね。

僕は言葉を覚えるのが結構好きで、それは自分の考えていること、感じていることをより鮮やかなまま他者に伝えることを目的としているんですが、言葉による感情の具現化だけが最適解ではないんだなって、最近気付きました。

僕は人並みよりも表現欲が強い方だと思うのでこうして文章を書いたりもするんですが、他の人がどんなことを考えていて、感じていて、どのように表現するのか、そういう情報ってなかなか入ってきません。

みんなが頭の中で考えていることも僕に見せてくれたら、嬉しいんだけどな。

脳という消化器官

脳は感覚の消化器官だと思う。

 

消化器官とは一般に口から取り込んだ食物が体外に排出されるまでに通る内臓系のことを指す。

このとき食物は細かく分解され、必要な部分のみが体内に吸収され、不要となった残渣が体外へと排出される。

つまり、必要な部分を取り尽くしたあとの食物は、人体の生命活動にとって意味を為さないのだ。

 

では、ひと聴き惚れた音楽が何故繰り返し聴くうちに味気なく思えるのか、好きな食べ物でも何故そればかりを食べていては食傷するのか、"飽きる" という感情は何故生まれるのか。

それは、同じ刺激を繰り返し受けるうちに脳が感覚を消化して "残渣" へと変えてしまうからではないだろうか。

 

もし人間の身体に消化器官が備わっていなければ、食物は口から取り込まれた形を保って体内を通り抜け、何の影響も及ぼさないままで外へ出ていく。

もし脳が消化器官でないとするなら、これと同様に様々な刺激は何の感情も動かさないままに脳を通り過ぎる。

しかし、実際はそうではない。

何かを食べれば分解して一部を体内に吸収し、それが養分となる。

何か刺激を受ければ感情が動く。

これは脳が感覚を消化していることに他ならないと思う。

 

だからきっと新しいものに触れて、挑戦して、新しい刺激を受け続けることが、脳にとっては養分になるんだって、柄にもないけど、そんな話でした。

散文

-卒業-

僕は諸事情あって大学4年を二度経験しました。とても長く、人生が大きく揺れ動いた2年間でしたが、本日3月17日を以て、無事とは言い難くも大学を卒業することとなりました。

ウイルス感染症の波及で卒業式やその他式典の一切が中止になってしまったのであまり実感が無いというか、本当に卒業したと言っていいのかすら怪しいですが、本来であれば、です。

2月20日、今年の誕生日は卒論の発表会と重なり生きた心地がしませんでした。

発表会を終えればあとは卒業を待つのみ、のはずだったのですが、教授からのお達しで研究を続ける羽目になり、そこから今日に至るまでが本当に長かったです。

朝から実験を始めて次の日の夕方まで不眠不休で、なんて事を2回もやってたり、それでも満足な結果が得られず教授に微妙な顔をされたりと、お世辞にも無傷とは言えませんでしたが、そんな生活も今日までで終わり、終わりです。

「終わってみれば良い思い出だった」なんてことが良く言われますが、そんなことも思えそうにありません。

ただ、この世のあらゆるものに言えることですが、良い経験だったのかもな、くらいには思っておこうと思います。

 

-電話-
新年度が近づいてくると就職先から電話が掛かってきたりするんですが、そういう畏まった電話が怖くて、その場で出られたことが無いんですよね。
いつもこちらから折り返す形でやり過ごしていて、社会人としてどうなんだって感じなので慣れていかなきゃね。

 

ー就活ー

僕が1年腐らせている関係で、大学院に進学した同期が今まさに就活をやっているんですが、大変そうだなあって感じです。

自分もそんなことをやってた時期があったというのが信じられないくらいです。

特に就活の思い出を語るつもりもありませんが、就活と言えば思い出すものの1つにHello,workerという曲があります。

この曲を初めて聴いたのは中学生頃だったと記憶していますが、当時の僕は歌詞の意味をよく理解していませんでした。

B4の紙切れに収まる僕の人生だとか、数行のお祈りに揺れ動くだとか、世の中にはある特定の経験をした人間にしか理解のできない表現ってのがあるもんですね。面白い。

これを書いている今、友達とカラオケに来ているんですが、激励の意味も込めて歌ってやろうかな。

素敵な曲なので興味があれば是非。

 

-環境の変化-

就職するってことは社会人になるってことで、社会人になるってことは学生でなくなるってことで、学生でなくなるってことは特別仲のいい友達以外には会わなくなるだろうし、アルバイトも辞めることになる。

新しい環境に身を置くってことはつまりそれまでの環境との決別を意味していて、何だか切ないです。

特にアルバイトなんかは興味のある仕事に手当り次第手を出していって飽きたら辞めるなんてことも許されていて、学生の特権だと思います。

常々言っていることなのですが、まだ学生の人たちには色々と経験しておくことをお勧めします。

 

-自動車学校-

経済的な事情と僕の腰の重さからずっと通えていなかった自動車学校に今更通っているんですけど、明後日、効果測定っていうWeb試験?みたいなものがあって、微塵も勉強してないです。はっきり言ってやばいです。

新年度を迎える前に免許を取るには後が無いので、悠長にこんな記事書いてるのそこそこ頭弱いと思います。

明日の自分の首を絞めないためにも少しくらいは勉強しておこうかな。