歌い手という生き物について

今日こそは今日こそはとTwitterでうそぶいていた記事をようやく書き終えました。

先月に続いて2ヶ月連続のうpです。

うぽつの程よろしくお願い申し上げます。

 

この頃、「歌い手の動画投稿祭にエントリーした」というのを身の周りで数人見かけました。

そのせいもあってか、おすすめツイートに歌い手関連のものが多く、色々と考えるところがあったので書き留めておきます。

 

(その人たちの活動については動画を見たくらいで他に何も知りませんが、万が一にもこの記事を読んでくれていたとして、不意に殴られるようなことがこのあと書かれていたら、僕の過失です…。)

 

まず前置きとして、僕は歌い手になりたいと思ったことが一度もありません。

ただ、動画という形で自分の作ったものを世に残すことには興味があります。

(肩書きや在り方に名前を付けることに居心地の悪さを感じると言った方が正確かもしれません。)

他者から認められ、評価される要素が内在しているなら、例えその評価が極少ないものだったとしても、外側に表現していった方が得だなと思います。

能ある鷹なら爪を隠したまま死んでいくのは勿体ないじゃないかという話。

承認欲求を満たすための手段としてではなく、"備わっているのに表に出していなかった能力" を純粋な自己表現として形にして世に放った結果、"他者からの評価" という印税が入ってきたらラッキー!みたいな感覚。

 

ところが人々の感覚は必ずしもそうではないみたいで…。

それだけでは腹の虫が治まらなくなっていったりもするんだと思います。

 

ここからが本題。

先日、ドワンゴ(ニコニコ動画の運営元)のお偉いさんに「動画投稿祭での歌い手の自薦行為」についてのツイートが届いていたのを見ました。

(自薦行為ってのはわかりやすく言うと「私の歌を聴いてください!」ってURL片手に布教してまわることだと思います。)

 

ツイートの内容を要約すると、

①頑張って作ったものを多くの人に見てもらいたいと思うのは当然なので、自薦は評価されるための正当な努力だと思う。(自薦の激しい人に賛否はあると思う。)

②「聴いて高評価くれたら私も返します!」という方法で受けた評価は歌自体の評価ではないので許せない。

という話でした。

 

これに対するお偉いさんの返答は

「個々の思惑まで判断できない以上、運営としては裁くのは難しい。」

みたいなところだったと思います。

そりゃそうだろうなって感じです。

 

ただ、元ツイートの言っていることは理解できるなと思いまして。

「純粋な自己表現の欲求があって、その発露に対する結果として評価が勝手に付随する」というのが最も健全で理想的な姿であると僕は思っています。

しかし、この理想論に基づいて言うと、「自薦に限らず、あらゆる宣伝行為は反則だ!」みたいな話になってしまいます。

当たり前ですが現実はそうもいきません。

極端な話、自分にしか見えないところに置いておいたって作品は歩いていかないですからね。

元ツイートの人は、より多くの人にとって優しい考え方で居られるように、できるだけ許容範囲を広げて「自薦は正当な努力」というところまで価値観を拡張しているんだと思います。偉い。

 

僕個人としては、視聴回数や高評価みたいに数字の大きさが評価の大きさになるような分野で、不特定多数に向けてではなく個人に対してURLを押しつけに行くのはちょっとやり過ぎかなと思う部分もありつつ…。

友達に宣伝するとかならまだしも、個人的に売り込まれた人が増やす再生数って、不特定多数に向けた宣伝を受け取った場合に比べて自由意志による度合いが低いというか。

個人的に売り込まず、不特定多数に向けて宣伝したものが偶然その人の目に届いたとして、それでもその人はわざわざ見に来てくれてたんかなって。

多少なりとも強制力を働かせて得た数字って、中身がなくて虚しいとか思わんのかなって。

 

とは言っても、"人の目に留まる最低水準" が大きく引き上げられてしまったコンテンツ飽和の時代に、如何にセルフプロデュースするかが重要だというのはVTuberの台頭からも一目瞭然で、そこにジレンマを抱えているのがクリエイターの現状なのかなと思います。

(初めから承認欲求を満たすことが目的になってしまっている人も、それはそれで結構居そうですが…。)

 

苦しいよな~!

そりゃ「再生数が自分で付けた "2" だけだったとしても、私は私が作りたいものを作れているからそれでいいの!」なんて綺麗事言えるわけねえよな!

人の目に留まる実力があっても、人の目に留まる方法にまで工夫が無ければ評価されない時代が来ているってこと、なんだか難しいなと思います。

日の目を浴びるべきものには、相応の機会が天から用意されていてほしいと思います。

 

僕は何かを生み出せる人間のことを心の底から尊敬しています。

それを如何にして人へ届けるかは個々の裁量次第ですが、考えるべきところは考えた上で、"自分が本当に大事にしたかったもの" を見失わない選択をしていって欲しいなと思います。

 

それとは別の話ですが、ある歌い手が活動休止を発表しました。

僕でも名前を知ってるくらいなので結構有名な人だと思います。

簡単に言うと「"歌い手としての自分" という人格が大きくなりすぎて "本当の自分" の存在意義がわからなくなったから」だそうです。

これはインターネット上の他の活動にも通ずる部分があると思っていて、僕もひわたりという人格を始めて少し経った頃に似たようなことを考えていました。

今はひわたりと自分本来の人格を心地よく同期出来ていて、むしろ自分の最も自然な状態をネットの外にまで拡張することができて良かったなと思っています。

先程話題に挙げたVTuberなんかもそうですが、過度なセルフプロデュースは身を滅ぼす結果しか産まないと思うので、その辺も難しいところだなと思います。

自分あっての作品、作品あっての評価ってとこだけは忘れないようにしなければいけませんね!

以上!

温泉に行った話

1年近く振りの記事になってしまいました。

書きさしの記事はいくつもあるんですが、なかなか結びまで筆が乗らず…。

今年はもう2つくらい出せたらいいなって具合です。

 

さて、この頃は私生活やSNSなど人間関係に疲弊する出来事が多いなと感じる日々を送っていました。

Twitterの下書きに、

『過激なツイートやインプレ稼ぎのリプライばかりを見て気が滅入った状態のこと「Twitterブルー」って呼ぶの流行らせたい』

なんてしたためたりしながら苦しみ悶えていた訳なんですが、或る人から「デジタルデトックスしたらいい」と助言を受けました。

 

デジタルデトックスとは、「スマホなどのデバイスと距離を置いてストレスを軽減し、現実でのコミュニケーションや、自然とのつながりを意識する取り組み」のことだそうです。

今調べて知ったんですが、日本デジタルデトックス協会なるものも存在しているようで…。

 

そんなわけで、三連休だった先週末をほとんど誰とも連絡を取らず、SNSも極力見ず、自適に過ごしていました。

抱えていた問題の1つがその間に快方へ向かったおかげもありますが、結果としてはかなり気持ちが楽になって良かったです。

SNSに感情を揺さぶられ疲れてしまったら、少しそこから離れてみるのもおすすめです。

 

ではそのデジタルデトックス期間に何をしていたのか、というのが表題に繋がるわけなんですが、近くの温泉に行ってみたりしていました。

その辺あまり明るくないので温泉という表現が良いのか分かりませんが…スーパー銭湯?とかの方が正しいんでしょうか…?

 

僕が温泉を苦手だという話は常々していることなのでご存知の方も多いかと思いますが、この頃の寒暖差と前日に長時間外に出ていたことも相まって無性に温かい湯に浸かりたくなり、意を決して "おじさんで煮だした出汁の池" に臨んできたというわけです。

大衆浴場へ赴いたのは7~8年振りとか、それくらいでしょうか?

正直自分から行こうと思う日が来るとは思ってもみませんでした。

 

受付を済ますと岩盤浴用の着物だと言われて薄い服を渡されました。

こんな人間たちの汗が無限に染み込んだ履歴のある服を俺はこれから着るのかと心の片隅で思いつつ、下着や靴下との接し方もわからないまま更衣室をきょろつき、周りの様子を伺いながら何とか着替えを済ませました。

 

くつろぎながら漫画が読めるとのことで、まずは書籍コーナーに向かいます。

以前にアニメで見た天国大魔境という作品の続きが気になったので、それを読もうと探しますが、どうやら取り扱いが無い模様。

しょぼくれた心で岩盤浴コーナーへ向かいます。

 

実を言うと本当の目的は温泉というより岩盤浴で、これには以前から興味がありました。

そもそも「岩盤浴」というのがどんなものなのかさえ想像がついておらず、熱せられた石盤の上に寝転び、鉄板で焼かれる食肉の気持ちを味わう遊びだとさえ思っていた節があります。

これを読んでくれる人の中にも岩盤浴への理解度が僕と同レベルの人がいるかもしれないので、「岩盤浴のネタバレ」にならないよう、実際にどのようなものだったかについて語るのは控えておきます。

体験した感想としては、とにかく暑くて、これに一体なんの意味があるんだ!と思いながら、でも皆が有難がるからには何か意味があるに違いないという感じでした。

(恐らくは代謝とかその辺の話だと思います。)

そして仕舞いには「暑さに耐えている状態こそが快感なのだ」というマゾヒスティックな錯覚を起こし、倒錯した思考の中で、ただ「耐えろ」という命題だけが脳を支配していました。

思いのほか良かったです。

 

ひとしきり温まったあと、外へ出て汗が引くのを待ち、施設内で夕飯を済ませて温泉へ向かいます。

ご飯は結構色々あって迷いましたが、まぜそばとピザを食べました。

温泉へ向かうと全ての人々は生まれたままの姿へと還っていくわけですが、温泉くらいしか同性の身体を見る機会なんて無いので、個人的には中々にショッキングな映像でした。

林保護活動でもしているのかと思うほどに下腹部の草木は萌え盛り、そうして出来た森の中から少し控えめなムーミンが顔を覗かせている、みたいな、大体みんなそんな感じでした。

もうちょっと何とかして欲しかったです。

 

身体を流して温泉に浸かると、湯に浸かること自体かなり久し振りだということに気付きました。

湯船の中でジェット水流?が噴き出していて、それを腰に当てながら、最高のマッサージチェアだ!と思っていると、隣に「電気風呂」という表示を見ます。

それからしばらく経ちましたがマジで誰も入っていませんでした。

が、好奇心に抗えなかったので恐々としながら身体を沈めに行くと、およそ人間が生身に浴びていいものとは思えない電流が流れていました。

電流が流れる度に筋肉が収縮して身体が丸まり、自由が利かなくなるのがわかりました。

面白かったです。

感電したときってこんな風に身体がこわばるんだろうなと思いました。

これに一体なんの意味があるんだ!と思いながら、でも存在しているからには何か意味があるに違いないと思い、しばらく浸かっていました。

 

サウナも初体験でした。

わけのわからない暑い空間で老若の男たちが耐え忍ぶ様がどうにも愉快なところでした。

個人的には岩盤浴の方が好みでした。

 

そんなこんなで温泉を上がり、謎のシャンプーで髪がギシギシになったのを感じながら自販機へ向かいました。

フルーツ牛乳を飲みます。

僕はハンバーグの次くらいにフルーツ牛乳が好きなので、この為に温泉に来たと言っても差し支えありません。

岩盤浴が本当の目的だと言った頃の気持ちは既に忘れました。

全身の細胞が打ち震えて歓び、この世にフルーツ牛乳を生み出した者への感謝を覚えます。

思ったより量が少ないなと思いましたが、2本目に手を出すのは野暮な気がしたのでやめておきました。

 

そんなわけで、今までずっと温泉を毛嫌いしていましたが、腹をくくってしまえば案外良いところなのかもなと思いました。

そして何より、たまには自分にしがらむものから距離をとって、考えることをやめる時間も必要だと気付きました。

また気が向いたら行ってみてもいいかもしれないね。

 

そんな話でした。それでは。

美術館に行った話

かなり前の話ですが、友達に誘われて美術館に付き添ってきました。

美術館なんてものに学校の行事以外で行ったことはなかったし、全く興味が無かったので、美術品を見て心を動かすだけの感情が自分に備わっているのか不安でしたが、友達が「物は試しだ」なんて言うので、狡い言葉だな、と。

何だか聞いたこともない画家の展示をやっていて、それを一緒に見て回りました。

 

僕には絵画や彫刻の善し悪しがわからないので、作品を見た人々が何を思うかの方に興味がありました。

黙って作品を見つめる女性や、分かったような口振りで話し合う夫婦や、両親に連れられた男の子が、一体この作品を見て何を思うのだろうか。

そんなことを考えながら作品と対峙していました。

しかし美術品に対して具体的な感想を持たない人間が、他人の感想など推し量れるはずもなく…。

 

そこで疑問が生じました。

そもそもこの作品の価値を理解し、具体的な感想を持っている人間がこの中にどれだけ存在しているのか?

小さな絵画がグローサリーの如く陳列されたあの作品群に、一枚だけ素人の作品が混ざっていたとして、その違和感に気付ける人がどれだけいるのだろうか?

仮に誰もその違和感に気付けなかったとして、では芸術とそうでないものの境界線はどこにあるのか?

芸術を芸術たらしめているものとは一体何なのか?

月並みな疑問ですね。

 

確かに、この作品には美術的な技法がたくさん使われていて、それが評価されているのかもしれません。

けれどそれを考慮しなければ、「芸術とそうでないものの区別」なんてのは本当は存在せず、人々が「美しい」と思えば、それだけで芸術たり得てしまうのではないか?

逆に言えば、もし人間という生き物に感情が無ければ、何物も芸術たり得ないのではないか?と考えました。

つまり芸術なんてものは本質的にはこの世に存在しないということです。

 

では芸術と云われているものの正体は一体何なのか。 

人間に感情があるから芸術は芸術となり、人間に感情が無ければ芸術は存在し得ない。

つまり、人間が何かを見て心を動かすその "感情" こそが芸術作品なのではないかと僕は思います。

何かを見聞きしたときに抱く感情がより美しく、複雑で、形容しがたいものであるほどそれは「芸術的である」と云われ、しかしそれは感情の芸術性としてではなく、作品の芸術性として認知されていく。

一般に芸術と云われているものは、人の心に "感情" という作品を生み出すための媒体でしかないのではないだろうか?

 

…なんて考えていたのですが、これを10秒くらいに要約して友達伝えたところ、

「そもそも美術的な技法だって人間が美しいと感じたものに対する後付けでしかないからね。」

と言われ、ハッとしました。

こういう天才的な切り返しができるようになりたいですね。

人々がより美しいと感じるものを表現したがるのは、感情という芸術品を"技法"という形で言語化するための活動でもあるのかなあ、なんて。

 

それでは絵画や彫刻に何の心も動かされない自分は何の芸術性も無い人間なのか…?

と思いましたが、前回の記事にも書いたように人生は唯一無二の芸術作品だと思っているので、それについてはまだまだ議論の余地がありそうですね。

 

そんなお話でした。

死という最高藝術

人生は1つの作品であると僕は思います。

この世には数多の芸術作品があって、絵画や音楽、文芸など、細かく挙げればキリがありません。

時代に名を馳せる芸術家というのは、得てして先達たちの残した功績を踏襲した上で高い独自性を発揮しており、その独自性故に評価されることが多いと思います。

芸術の才能をからきし持ち合わせぬ僕が語るのもおかしな話ですが、どんな分野でも足掛かり(=独自性を創出する基盤)になるのはきっと模倣なんですよね。

その模倣の最中で "自分にしか生み出せない唯一無二の表現" に辿り着いた者が、高く評価される作品を生み出していく。

ただ、その領域にまで到達するにはきっと並一通りでない研鑽を積む必要があります。

 

唯一無二の表現に懊悩する芸術家が数多居る中で、人の一生というのは唯一模倣によらず、誰もが無二たり得るものだと思うんですよね。

これを芸術作品と言わずして何を芸術と言えようかという話ですよ。

 

そして如何に美しく、或いは劇的に死ぬことができるか、それが人生という作品の価値を決めるのだと思います。

 

美しく死ぬというのは何も「多くの人に看取られながらこの世を去るのが良い」と言いたい訳ではなく、これまでの人生を憂いながら独りで死んでいくのもまた美しいと思います。

そこは各々の目指す終着点がどこにあるかという話でもあるので。

要は本人がそれまでの人生で積み上げてきたものに対し、最期に「良い結びだった」と思える死に様かどうかってことです。

 

ドラマだって、小説だって、長く物語に関わった登場人物が命を落としていく様に一番心を動かされるでしょう?

つまりはそういうことです。

 

これはもう何年も何年も言っていることなんですが、僕にとっての理想の終着点は「愛する人に命を奪われること」なんですよね。

何か止むを得ない状況があって、本当はそんなことをしたくはないのだけど、涙を流しながら僕の脇腹に刃を呑ませる。

そしてそのことを鮮烈な思い出のまま抱えて生きて、いつかは前を向けるようになってくれたら嬉しいです。

そんなにも深く、呪いにさえ感じてしまうほど愛されていたのなら、それほど幸福なことはないなと思いますね。

とは言っても僕の夢は不老不死なので、例えば僕に愛されたとして、間違っても刺し殺してしまわないでくださいね。

 

ところで僕は人を呼称するとき「○○ぴー」というのをよく使いますが、実は今回の話がその理由の何割かを担ってます。

人はみな人生という作品のプロデューサーなので…。

残りはただ響きが良いからなんですけどね。

そんな裏話もあるよというお話でした。

 

これを読んでいるあなたの思い描く理想の終着点はどんなですか?

匿名コメントで構わないので、もし教えてくれたら暇潰し程度に読んでおきますね。

「気になる異性の誕生日に贈り物をしたいが何物が誂え向きか図り兼ねる、どうすれば良いか」という相談を受け、そんなことは私にもわからないので「心でも渡せば良いのではないか」と答えたその翌、彼は心を失い、かの人を想う気持ちすらも失ってしまっていた。

たまねぎ

春めく麗らかな昼下がりのこと。

僕は夕飯の材料を揃えにスーパーへと足を運んだ。

カレーでも作ろうと思い、にんじん1本とじゃがいも2つをかごへ入れ、たまねぎを探す。

 

「おかしいな、いつもはこのあたりに置いていたはずなんだけど…。」

 

暫く探していると、入口からほど近い所にたまねぎの売り場を見つけた。

しかし、そこで売られていたのは僕の知っているたまねぎとは違っていた。

新たまねぎと言うらしい。

今までに見てきたものと比べると色は薄く、触り心地もどこか脆そうな印象を受けた。

 

「へえ、これが新しいたまねぎか。野菜にもアップデートとかリニューアルとかあるんだな。」

 

僕はそう思った。

会計を済ませて家路につくと、ふと疑問が浮かぶ。

 

「旧たまねぎはどうなってしまったんだろうか?」

 

そう考え始めると、旧たまねぎのことが頭から離れなくなっていった。

カレーを作っているときも、お風呂に入っているときも、テレビを見ているときも、寝る前も、気がつけば僕は旧たまねぎのことを考えていた。

 

「もう市場は完全に新たまねぎに置き換わってしまっていて、旧たまねぎが売られることは無いのだろうか…。」

 

明くる日、そのことを友人を話すと僕は酷く馬鹿にされた。

 

『あはは!!お前馬鹿だな!!あれはな、収穫時期が普通のたまねぎより早いんだ。普通のたまねぎと違って出荷前に乾燥させないから色も白い、ただそれだけだよ。』

 

僕はたまねぎ1つでこんなにも赤恥をかかされることになるなんて思いもしなかった。

もう二度とたまねぎなんて食べてやるものか!と言ってしまいたくなるほどだった。

そんなことがあってから幾ばくかの月日が流れ、季節は初夏の頃になっていた。

 

「近頃は忙殺されていてコンビニ弁当ばかりの生活だったし、久しぶりに健康的なものでも食べようかな。」

 

そう思ってスーパーへ行くと、野菜コーナーの一角に或る貼り紙を見つけ、僕は目を疑った。

 

「疲れているのかもしれないな…。徹夜続きだったし無理もないか…。」

 

一度を目伏せるように俯いたあと、疲れを振り払うようにして顔を上げる。

それから改めて貼り紙を読み返すが、そこには確かにこう書かれていた。

 

 

《  旧たまねぎ 入荷いたしました!  》

ポケモンの話

気が向いたので連続投稿を。

前回の記事は実はしばらく前におおよそ書き終えていたものを仕上げて投稿したという感じでした。

昨日見た夢のように話していましたが、あれはもう全然昨日とかのレベルじゃないです。

少なくとも1ヶ月は温めていたので完全に腐ってました。

今回のは書いてすぐの投稿なので鮮度がいいです。

 

何か書こうと思い立ったものの、特に書くことがないのでそのとき話してた友達に話のテーマを乞うたら、「ポケモン」とのことだったのでその話をします。

 

もうすぐダイパリメイクが発売ですね。

ダイパはそこそこ思い出深い作品ですが、個人的にはルビサファが一番好きなのと、年明けにアルセウスが控えてるので僕は買いません。

アルセウスはかなり楽しみです。

 

ポケモンというコンテンツは僕の人生を語る上で切り離せないくらいの重要性を持っています。

ポケモンが生まれた時期と僕が生まれた時期がそう遠くないこともあってか、幼い頃からそのアニメを見て育ってきたし、初めて母に買ってもらったゲームがポケモンのルビーだったのをよく覚えています。

ゲームを買ってもらったのは確か小学校に上がった頃だったように記憶しています。

当時は本当に取り憑かれたようにそればかりに没頭していて、最終的には500時間くらいプレイしたんだったかな。

その後数年おきに発売されるタイトルも2、3作後までは平均300時間ほどやってた気がするので病気だと思います。

勉強もちゃんとしてましたよ。

どちらかと言うとちゃんと勉強してるタイプのこわっぱだったので。

成績もよかったです。

 

閑話休題、それだけ大量の時間をポケモンというコンテンツに費やして、一体何を得たのかという話ですよね。

まず1つは「鳴き声でポケモンを判別する能力」です。

ポケモンのゲームってキャラクターごとに2、3秒の電子音で鳴き声が付けられているんですが、その音を聞けば姿を見ずともなんのポケモンか当てられるという。

もうだいぶ忘れてますが、ダイパくらいまで(500種類くらい?)ならおおよそ聞き分けられてました。

 

というのは前置きで、もう1つポケモンからは言葉を学んだというのがあります。

僕は本を読むことがこの世で1番くらい苦手なのですが、ではどこから言葉を学び取ったのかというとゲームからなのかなあ、という気がしています。

もちろん親や周りの大人が話す言葉や、学校の勉強によるところも大きいですけどね。

ポケモンはいわゆるRPGというやつで、自分がゲームの主人公となり、他のキャラクターとの関わり合いの中でゲームが進行していく形式です。

ゲーム中では色んなキャラクターが色んな言葉を話しています。

それは物語に関わる主要なキャラだけでなく、街の人や、道端の敵キャラもそうです。

 

そうやってゲームの中のキャラクターが話す言葉を読んで最初はよく意味が分からないなと思っていても、後にその言葉の意味を知ったときに「あれはこういう意味だったのか!」と、そういう風に言葉の面白さを見出していったようにも思います。

大人でも全員が知っているわけじゃないだろうなっていう結構難しめの言葉とかも出てくるので、それこそ大人になってからリメイク作品をプレイして初めて意味が分かるなんてことも多々あります。

何よりゲームでは「正しい日本語が使われている」というのが良い所ですね。

正しい知識を楽しみながら印象付けていくことができるコンテンツは貴重です。

勉強なんて遊びながらできるならそれが一番良いですからね。

もし将来自分に子供ができるようなことがあれば、させるゲームは「そこから知識を得られるゲーム」が良いなと思っています。

みんなもAPEXばかりやってないでポケモンをやろう、そんな話でした。