美術館に行った話

かなり前の話ですが、友達に誘われて美術館に付き添ってきました。

美術館なんてものに学校の行事以外で行ったことはなかったし、全く興味が無かったので、美術品を見て心を動かすだけの感情が自分に備わっているのか不安でしたが、友達が「物は試しだ」なんて言うので、狡い言葉だな、と。

何だか聞いたこともない画家の展示をやっていて、それを一緒に見て回りました。

 

僕には絵画や彫刻の善し悪しがわからないので、作品を見た人々が何を思うかの方に興味がありました。

黙って作品を見つめる女性や、分かったような口振りで話し合う夫婦や、両親に連れられた男の子が、一体この作品を見て何を思うのだろうか。

そんなことを考えながら作品と対峙していました。

しかし美術品に対して具体的な感想を持たない人間が、他人の感想など推し量れるはずもなく…。

 

そこで疑問が生じました。

そもそもこの作品の価値を理解し、具体的な感想を持っている人間がこの中にどれだけ存在しているのか?

小さな絵画がグローサリーの如く陳列されたあの作品群に、一枚だけ素人の作品が混ざっていたとして、その違和感に気付ける人がどれだけいるのだろうか?

仮に誰もその違和感に気付けなかったとして、では芸術とそうでないものの境界線はどこにあるのか?

芸術を芸術たらしめているものとは一体何なのか?

月並みな疑問ですね。

 

確かに、この作品には美術的な技法がたくさん使われていて、それが評価されているのかもしれません。

けれどそれを考慮しなければ、「芸術とそうでないものの区別」なんてのは本当は存在せず、人々が「美しい」と思えば、それだけで芸術たり得てしまうのではないか?

逆に言えば、もし人間という生き物に感情が無ければ、何物も芸術たり得ないのではないか?と考えました。

つまり芸術なんてものは本質的にはこの世に存在しないということです。

 

では芸術と云われているものの正体は一体何なのか。 

人間に感情があるから芸術は芸術となり、人間に感情が無ければ芸術は存在し得ない。

つまり、人間が何かを見て心を動かすその "感情" こそが芸術作品なのではないかと僕は思います。

何かを見聞きしたときに抱く感情がより美しく、複雑で、形容しがたいものであるほどそれは「芸術的である」と云われ、しかしそれは感情の芸術性としてではなく、作品の芸術性として認知されていく。

一般に芸術と云われているものは、人の心に "感情" という作品を生み出すための媒体でしかないのではないだろうか?

 

…なんて考えていたのですが、これを10秒くらいに要約して友達伝えたところ、

「そもそも美術的な技法だって人間が美しいと感じたものに対する後付けでしかないからね。」

と言われ、ハッとしました。

こういう天才的な切り返しができるようになりたいですね。

人々がより美しいと感じるものを表現したがるのは、感情という芸術品を"技法"という形で言語化するための活動でもあるのかなあ、なんて。

 

それでは絵画や彫刻に何の心も動かされない自分は何の芸術性も無い人間なのか…?

と思いましたが、前回の記事にも書いたように人生は唯一無二の芸術作品だと思っているので、それについてはまだまだ議論の余地がありそうですね。

 

そんなお話でした。