壇上、或る人は問いかける。
『君の生きる価値は何だ?』
僕は呟く。
「そんなの、こっちが聞きたいよ。」
生きる価値とは自分で見つけ出すものだ、その人は偉ぶった調子でそう続けた。
その後の話はよく覚えていない。
明くる日、僕は友人と昼食を摂っていた。
「なあ、僕の存在価値は何だと思う?」
「どうした藪から棒に。お前はどうしてそんなことを知りたい?」
「いや、単に気になるだけだ。」
「そんなことを一々気にしていたって、気疲れするだけだ。やめておけ。」
答えには、なっていない。
しかし、僕にとっての彼の存在価値は、そこにある。
僕の不安を看破し、的確に打ち砕いてくる。
彼とは長い付き合いだが、僕は何度もそうして救われてきたのだ。
ただ、今回に限っては僕の方が一筋縄ではいかなかった。
「何だよそれ。お前には語って聞かせるほどの価値がない、本当はそう言いたいんじゃないか?正直に言ってみたらどうなんだ。」
「誰もそんなこと言ってないだろ。何を躍起になってるんだ。」
「………少し頭を冷やす。」
自分でもどうして感情的になっているのか、理解が及ばなかった。
気付けば何かに化かされたように啖呵を切っていた。
ただ、正体の見えない何かに脅かされる感覚だけが確かだった。
「 " 君の生きる価値は何 " 、か…。」
外に出て低い石垣に腰掛け、風に当たっていると、その言葉が脳裏をよぎった。
価値とは本来、他者からの評価によって生まれる形而上のステータスであり、自己に内在させるものではない。
頭では、そう理解している。
しかし、理解の外では自らの存在価値を探し求めてしまうこともまた事実だ。
生きて、そこに付随するはずの存在価値が、無意識のレベルで生に先行してしまう。
価値が無ければ、生きては居られない錯覚に陥る。
言わば我々は、レゾンデートルの犬なのだ。
きっと僕は存在価値に怯えている。
何者にもなれない僕は、何者にも代替され得ない唯一の人間である証を、きっと必要としているのだろう。
これから先の人生も、恐るらくはそうして怯え続けていく。
いつかの問いの、その答えに辿り着くことができたなら、そのとき僕は心の底から " 生きて良かった " と思えるのだろうか───。