4月の日記

色々と無い経験をしたので、あとで自分が読み返せるよう記憶のブックマークとして記しておきます。

もう5月も終わるというのに…。

事実の羅列でしかないので、読んでもきっと面白くはないと思います。

前置きはこの辺で。

 

同僚の一人が会社を辞めるというので、色々と頼みごとを聞いてもらった相手でもあるからと思い、送別会へ参加した。

俺は飲み会に限らず、その場に自分よりも喋りたい人が居ればその人に喋らせてエネルギー消費を抑えたいので、声のでかいおじさんたちが楽しそうに話しているのをにこにこしながら聞いていた。

 

しばらく飲んで酔いも回った頃、個人的にめちゃくちゃ仕事ができると思っている上司が「俺はひわたりくんが一番好き、ひわたりくんが一番優秀だと思う」と繰り返し始める。

ありがたいことだし、正直かなり嬉しかったのだけど、俺よりもちゃんと仕事をしている人たちの前で過剰とも言える評価をされるのは決まりが悪く、反応に困った。

これを書きながら思い出したのだけど、数年前の飲み会で同じ上司に「ひわたりくんはまだ少し足りないところがある」と言われたことがあった。

この数年の間にそれだけ評価されるようになったのだと思うと、自分も意外と頑張っているのかもなと思った。

 

酔いもそこそこに1件目を後にすると、強引に全員が二次会へ連れていかれ、生まれて初めてスナックという場所を経験する。

お金を払って女性と関わる場所は何年も前に連れていかれたメイドカフェくらいだったけど、やはり遠巻きに見るくらいが性に合っているというのが一番の感想だった。

おじさんたちがひたすらでかい声で喋ってくれるので、8割方はその相手をしながら、気を遣って話しかけてくれる店員さん(っていう表現でいいのか?)とたまに自己開示を交えて世間話をした。

店員さんは20代中盤の人が1人、次いで30歳前後の人が1人か2人、あとは年齢不詳だがそれよりも上であろう人が数人、とかそんな感じだったように思う。(正直自分の対話圏内に居た2人くらいのことしかはっきり認識していなかった。)

店内にはカラオケが設置されており、歌うように促されたので何度か歌った。

会社の人たちは俺の歌について特に言及しなかったけど、お店の人は上手いですねみたいなことを言ってくれて、そういう仕事だよなとは思いつつも少し気分がよかった。

 

幾ばくか過ぎた頃、歳下の先輩(かなりうるさい)が一番若い店員さんに「なんか歌って欲しい曲ある!?」と絡んでいく。

あまりにもめんどくさすぎる。

店員さんは「え~歌って欲しい曲?せめて選択肢がほしい」みたいな返しを、やはり少しめんどくさそうにしていた。

うわあ、と思いながら見ていると、その直後に店員さんがこちらを向き直って「何か歌ってほしいです!!○○とかわかりますか?○○は!?」と、まくし立てる。

他の店員さんからも「やっぱり上手い人の歌が聞きたいですよ!」みたいなことを言ってもらって、どれもすごくありがたい言葉で、褒められることは本当に嬉しいのだけど、先輩への対応とあからさまに差があることへの気まずさでそれどころではなかった。

プロなら私情で客に優劣をつけないでくれ!

でも本当に嬉しかったことには違いありません。

もしかしてむしろ優劣を付けることでカモを捕まえようっていう思惑通りだったりするのだろうか…。

また行きたいとは正直あまり思ってないので、もしそうだとしたら人選ミスです。

 

終電の間際に解散すると、退職する同僚が1時間半歩いて帰ると言うので、独りは寂しかろうと思い、方向も同じだったこともあり、自分の家を通り過ぎて送り届けることにした。

彼とはそこそこ趣味が合うので、話はぼちぼち弾んだ。

深夜1時半を過ぎた頃、無事に家へと送り届けたあと、さすがにここから自分の家まで歩いては埒が明かないと思い、4km強の道のりを走って帰ることに。

それから20分ほどをかけて自宅へ帰り着くものの、酒を飲んだ身体で激しい運動をしたせいで割れるような頭痛に襲われる。

しかしやはり酒を飲んでいるせいで薬を服用することもできず、地獄のような時間を過ごしたのでした。

おわり。

後悔と正しさについて

人は後悔をする。

そしてその後悔を省みたとき、或る者は「別の選択を取れば良かった」と思うかもしれないし、また或る者は「自分の取った選択は正しくなかった」と思うかもしれない。

 

ではそもそも正しさとは何だろうか?

人を観察していると、多くの人は「正しさ」というものを、「(自らの思考の及ぶ範囲に存在する)人類の総体を統べる何らかの大いなる意志によって定められた共通のルール」のように捉えていると感じる。

だが、実際に有る正しさの概念とは、そんなプロビデンスのようなものではない。

人と人が争うとき、それは両者の信じる正しさに差異があるからなのであって、つまり人と人との間に争いが生まれる以上、そこにある「正しさ」は共通のルールたり得ない。

それは自らの信じる正しさのことを神格化するあまり、総体の意思であるかのように倒錯してしまっているにすぎないのだ。

 

正しさは人によって異なる。

その信じる正しさが、属するコミュニティにおいて多数派であったり少数派であったりはするのだろうけど、各々が自分の信じる正しさに従って生きれば良いのだし、また自分の正しさに従わない選択をする事だって憚る必要は無い。

諸行は無常であり、万物は流転するものであるから、それまで理解の及ばなかった主義や主張に触れて自分の価値観を変えていくことは自然の摂理にも等しく、そもそも人はそれを「成長」と呼んでいる。

むしろ、その人の中にある「正しさ」が流動性を帯びておらず、固定観念化してしまっている状態の方がかえって愚かしさとして映ることも多く、そのことは「老害」という表現の跋扈にも現れている。

正しいとか正しくないとかいう言葉の脆弱性なんてそんなものだ。

結局は何者も自分がこうと決めた、独自の正しさに従って生きるしかないのであって、その正しさは世間体や社会性に隷して決めるべきではなく、また、決められているわけでもない。

(もちろん、暴力を振るってはならないだとか、人を殺めてはならないだとか、法律で禁じられているレベルのことには従う前提だけど。)

そのとき自分が本当に選び取りたいものを、そのときの自分と対話しながら決めていけば、それがどんな考え方であっても正しさと呼べるのだと思う。

つまり、自らの意志で選び取った選択であるなら、そこに「正しくない選択」などというものは存在しない。

そして、世間体や社会性、或いは先生や友達の助言など、外的な引力に屈するようにして自らの真意にそぐわぬ選択を取った、或いは取らざるを得なかったとき、人はそれを「後悔」と呼ぶのだと思います。

 

もちろん、自らの意志で選び取った選択の果てにだって後悔はあるんですけどね。

 

正しさを世界の共通ルールのように捉えてしまいがちだけど、実際にはそのとき信じたいと思うものが正しさそのものであって、様々な経験を経て別の正しさに目を向けたって良い。

だから、自分が心から望んで選び取ったものなら、そこに正しくない選択なんて無いよねって話でした。

おわり。

月の底から

誘蛾灯の下を、あなたはきらきらと歩いている

浅葱色のスカートが、いつか夜に溶けてしまいそうで

心がきゅっと音を立てる


もし、もしも今、世界がいくつもの地平に分かたれてしまって

私たちが歩いてきた道も、すっと分からなくなって

真新しいページの1つに、泥水がはねてしまったとして

あなたの優しさは、それでも柔らかであり続けてくれるだろうか


「ずっと昔、世界は光り輝いていたんだって」


「月の上まで競走しようよ」


「湖の底からお日さまを見上げる夢を見たの」


あなたはひらひらと言葉を吐いている


コーヒーにほどけたミルクのひと結びをすくうみたいに

紙撚りのひと紬ぎを選びとるように

とりとめのない日々を

私たち、暮らしていけたらよかったのにね

愛情を量る

今回は少し下世話というか俗っぽい話をします。

「男は本気の相手には手を出さない!」なんて通説があるらしいのですが、それについて、本当か?と思ったので感じたことを述べていきます。

 

まず、言葉の定義からして「手を出す」というのは本気ではない相手にしか使われない言葉だと思うので、これはトートロジー的なことを言っている気もします。

トートロジーとは所謂"小泉構文"とか云われているやつのことで、同じことを意味ありげに繰り返しているだけの当たり前で中身のない表現だよねっていうことです。

そもそも「手を出す」には「女性の心を惑わし、悪い方へ誘い込むこと。」という意味があります。

しかし 「本気の相手」に対して「僕の誘いに乗ることは彼女にとっては悪い方へ流されることだ!」と定義する人はまず居ないと思います。

(男性側の自己肯定感が病的に低いだとか、女性側に配偶者が居るだとか、そういう特殊な状況はさて置きます。)

つまり、「本気の相手には手を出さない」というのは、「誘うことが悪い方にならない相手を、悪い方へ誘うことはない。」というトートロジーのようだな、という話です。

(厳密にはトートロジーとは違うけど。)

 

少しややこしい話をしてしまいましたが、一方で「この言葉の真意はそんなものではない!」という主張も聞こえてきそうです。

それでは今度はこれを意味ある文章として汲み取っていきます。

 

実際には「手を出す」というのは暗に「肉体関係を結ぶこと」と定義されているのでしょう。

「本気の相手には手を出さない!」というのは、つまり「本気の相手と付き合う前に肉体関係を持ったりはしないだろう!」ということが言いたいのだと思います。

それって本当か?と思うのはここです。

僕が思うに、これは「本気の相手に手を出す男」は、"存在するが極端に観測されにくい"だけなのではないかと。

 

そこで、「本気の相手に手を出す男が存在しても観測されない理由」を示すことで、「本気の相手に手を出す男は居ない!」という通説に反例を作っていきます。

 

仮に「本気の相手に手を出す男」が存在するとして、その進む先は大きく次の3つに落ち着きそうな気がします。

 

1. 男性側が何らか幻滅してそれ以上進展しない場合

2. 好意に応えることができず女性側から縁を切る場合

3. そのまま恋人になって恋愛が上手く運ぶ場合

 

この全てにおいて 「本気の相手に手を出す男」が観測されない理由を推測していきます。

 

 1. 男性側が何らか幻滅してそれ以上進展しない場合

これは簡単です。

「本当は口で言うほど私のことを本気で好きじゃなかった奴」として認識されるからです。

つまり、「本気じゃなかったから手を出したのだろう」という解釈になってゆき、「本気の相手に手を出す男」としては観測されません。

 

2. 好意に応えることができず女性側から縁を切る場合

これは、女性自身が相手の好意に応えられなかったことや、自分の行動に後ろめたさを感じるケースが多いように思えるためです。

女性側が「自分にも後ろめたい部分がある」と感じている場合、大腕を振って「あいつは私に手を出したのだ!」とは言わないと思います。

なのでこのケースでは「手を出した男」として観測されにくいことになります。

 

3. そのまま恋人になって恋愛が上手く運ぶ場合

これは、上手く運んだ恋愛に対して「あいつは手を出した!」という表現は不自然だからです。

どんな入り口であれ、男性側の気持ちが確かなものであるなら第三者は2人の交際を前向きなものとして捉える場合が多いでしょうし、そもそもの話、本人が「実は私たち付き合うよりも前に!」なんてことを暴露したがることもそうそう無さそうなので、またしても彼は観測されないことになります。

 

要するに2つめと3つめについては、男性側に明確な好意があれば、恐らく女性側はそこに「手を出す」という言葉ほどの悪いイメージを感じにくいのではないかということです。

(前述したように、これがトートロジー的表現であることに帰結しているようにも思えます。)

 

だから、存在していても、観測されにくい。

それが悪いとかいう話ではないです。

むしろ「存在しているけど、悪役として認知されているわけではないよね」って、どこかでやんわり受け入れられているということなんだと思います。

一般に"かくあるべき"とされている交際の手順に対して順序錯誤なのは勿論なんですが、例えば「タイミングが掴めずに居たが、子供が出来たことで結婚に踏み切ることができた」なんてのも順序錯誤で、個人的には別にそういう形があってもいいんじゃないかなと思います。

何らかの後押しが欲しいなんてことは誰にでもあることなので。

厳に言えば「そもそも婚前交渉をすべきではない!」という考え方だってあるわけですが、大多数の人間はそれを破って生きていますし、当事者たちが望んで選択した結果ならその善し悪しに外野が言えることは何も無いなと思います。

 

では、ところでこの通説は一体なぜ流布されるのか?

 

例えば胸が苦しくなるほどの片想いをしたとき、その相手に対して弱気な姿しか見せられないなんてことは男女を問わずありがちだと思います。

このような手も出せないし実も結ばずに終わってしまいそうな恋愛の数多を、「自分の好きな人が自分に対してもそうであってほしい」という願いでねじ曲げて都合良く表現した結果が、「男は本気の相手には手を出さない!」という、脅しにも似た通説なのではないか、というのが僕の考察です。

 

ここまでに話した内容が正しいかどうかはさて置き、個人的にはこういった強い言葉で相手の行動を縛るような真似には感心しません。

よくある「男が女性に奢らないとき、あなたはその程度の女だと思われているのだ!」みたいな話もそうです。

「相手が自分を大切に思ってくれていれば必ずこうするはずだ!」みたいな話をしてしまうと、「それ」に反する行為は相手を大切にしていないことの証明になってしまうので、事実上の選択肢が失われるんですよね。

別に反することをしていたって本気で相手を大切に思っていることもたくさんあるでしょう。

愛情表現の基準なんて人それぞれなんですから。

 

でも、そういう強い言葉で相手の行動を縛ろうとするとき、きっとそこにある原初の感情は「好きな人に大切にされたい」ということなのであって、そう思えば可愛いものだな、もっと自分の感情を分解しような、静かにしていろ、と思います。

それでも、誰もが少なからずそういう過ちを犯しながら生きているわけですね。

 

何にせよ、自分の願いを世界のルールであるかのように騙ることは、できる限りしないでおきたいものですね。

おわり。

散文2

-1月の日記-

この年末年始はほとんど人と関わらないようにしていた。

その間は随分気が楽だったのだけど、仕事が始まったりネットで人との関わりを増やしたら完全に自分の対人キャパを超えてしまって、人と関わる時間が億劫で仕方がなくなってしまった。

孤独を好まないわりに孤独になりたがるこの精神が酷く厭わしい。

鍋が美味い。

 

世界線

世界線という言葉を使う人の8割に対し、もう少ししっくり来るタイミングでその言葉を使ってほしいと思っている。

 

-文字と肉声-

「テキストメッセージは話し声よりも情報量が少ないから感情が伝わりにくい」みたいな話がある。

たしかに、話し声が「声色、強勢、速度」といった情報を含んでいるのに対して、テキストは言葉の羅列を視覚的に捉えるしかなく、情報のパラメータ数で言えば間違いなくテキストの方が少ないと思う。

(単に言葉の羅列と言っても表現の揺らぎはあるが、話し声もまた表現の揺らぎを伴った先に発声されるものであるから、やはり情報のパラメータ数はテキストの方が少ないと思われる。)

そのことが「感情の伝わりにくさ」を生み出しているのだろうけど、ただ、情報の強度に関してはわりと等価な気もしている。

結局は100%を各パラメーターにどう割り振るかの違いで、例えるなら聞き手の印象を左右させる割合が、

話し声:言葉の内容30%、表現20%、声色30%、強勢20%

テキスト:言葉の内容60%、表現40%

みたいなことになっていて、話し声の方が「言葉の意味」が担う情報が相対的に弱くなるんじゃないかなと。

だからテキストメッセージの方が言葉の意味をより強く受けとってしまう(=感情が乗りにくい)ってことなのかもしれないなっていう話でした。

(この文章死ぬほど分かりにくくないか?)

 

-冠婚葬祭-

20代も後半に差し掛かると結婚式への招待が増えてくるというのはよく耳にする話だけど、これがもっと先、今よりも遥かに老いた頃になれば増えてくるのは訃報だったりするのか、と思うと少し考えさせられる。

 

-2月の日記-

積極的に連絡をとってくれる僅かな人たちと、たまに話をしたりしている。

様々な人生があるなと思うし、若さ(≠実年齢)とは豊かさであることを痛感する。

髪の長さが自分好みのゾーンなので人に会いたい。

もうすぐ歳をとる。

 

-センスに関する卑屈な話-

「物事の醜美を見定め、より美しいものを生み出す能力を自分の中に蓄積していく力」のことをセンスと呼ぶとします。

例えば自分が「この人はセンスが良いな」と思っているAさんと話をしていると、そこへ別のセンスの良さそうなBさんがやって来たとする。

センスの良い人間というのは審美眼が優れているし、当然自分の能力に見合った能力を持つ人間と交流を持つことで自分の中に新しい何かを蓄積したいと考えるので、同じ匂いのする者を嗅ぎとってBさんと親交を深めていく。

そしてこのとき、Aさんにとって、「Bさん」と「それ以外の人間」は対等な位置に居ないということに気付く。

そういうふとした瞬間に、「ここに集まっている者の大多数は、Aさんと対等な位置に居られない"オタク"や"囲い"なんだ」と気付き、"その一部"になっている自分を俯瞰して気分が悪くなり、そこから身を引いてしまう、ということがよくある。

対等以下にしかなれないことを気(け)取った瞬間に、対等以上の良い関係を築くビジョンが見えなくなってしまう。

それでも、自分だって誰かに同じことをしてしまっているのかもしれないと思うと、何だか複雑な気にもなる。

(もっとも、本質的にはセンスに善し悪しなどというものは無く、趣味や趣向の合う、つまりセンスの合う人間のことを便宜上「センスが良い」と謳っているに過ぎないけど。)

 

-今年流行らせたい言葉-

たしかにキャンサークラ

 

-逆ギレ-

なにが悪い!と逆ギレするような状況の大半は誰も悪いなどとは言っておらず、自分の中に薄らと悪さの自覚があるため、それを咎められる前に先んじて啖呵を切って身を守りたいという心理の表れなのだろうなと思う。

 

-ミックスナッツ-

仕事中にお菓子をつまんでしまうので、これは健康に良くない!と思い、代替品としてミックスナッツのバケツみたいなものを買った。

(実際にはバナナチップスとかレーズンみたいな異分子も入っている)

幼い頃はナッツ系があまり好きではなかったけど、最近はその良さが少しわかる。

結局家で食べている。

誰にでも優しそう

人に特別優しくしたり好意を示したときに「誰にでも優しそう」などと言われることがあります。

それを言われるといつも「あなたに一定の好意を持っているからそうするのであって、誰にでもそこまで優しいわけないだろう!」と思っています。

 

これは「気付いた人がやる」というシステムの諸悪と構造が似ている気がします。

例えば、風呂場の汚れに気付いた誰かがそれを掃除したとして、気付いていない人は、風呂を掃除してもらったことにすら気付くことが難しいんですよね。

つまりお互いが「何かに気付いてそれを処理した自分」をより多く観測することになり、それが積み重なると「自分ばかりが気を配っている!」という錯覚が起こります。

良くないですね。


これと同じで、「相手が自分に好意を向けている事実」しか観測していないからといって、「誰にでも優しいからそうしているだけだ」なんて錯覚を起こすのはあまり良いことのようには思えません。

下心からより多くの対象に好意を示そうとする者があるのも事実だと思いますが、それなら尚更「誰にでも優しそう」なんて言葉は「下心がありそう」ってニュアンスを孕む可能性があって、そう言われるのは本意じゃないなと思います。

 

僕は結構言葉のニュアンスに敏感なので、不本意な伝わり方をしない言葉選びを心掛けてはいるつもりですが、普通の人がそこまで深く考えていないのはわかっています。

「誰にでも優しそう」というのが「自分だから優しいのではなく、元から優しい人間なのだろう」という意味で言ってくれているらしいことも察しはつくので、好きなように表現してくれればこちらで意図を汲むだけの話なんですけどね。

 

何にせよ、自分が何かを与えられていることを知覚するのって、案外難しいもんだなと思います。

なるべくそれに気付いて、行動で返していきたいものですね。

おわり。

灰庭 プロトタイプ2

明くる日の学校、僕は昨日見た建物のことを友達に話していた。

 

「あのボロい集落の先だろ?本当にそんなものあんのか?」

「うん、偶然見つけたんだ。中には入ってないけど。」

「ふーん…なんかヤバい研究施設だったりして!」

 

相沢は上半身をこちらへ前傾させながら、ニヤリと笑って言う。

彼は同じ中学から進学してきた友達で、頭は良いが少し子供っぽいところがある。

 

「はいはい。くだらないこと言わないの。」

 

こちらへ歩いてきた依莉がわざとらしく呆れた調子で割って入る。

 

「なんだよ、こういうのは "男のロマン" ってやつなの。」

 

そう言って相沢もわざとらしく口をとがらせてみせた。

依莉は高校に入ってからできた友達で、知り合ってまだ日が浅い。

入学してすぐの頃に相沢が意気投合したのが出会いのきっかけで、最初は "相沢の友達" という感覚だったが、妙に人懐こいところがあり、距離感は驚くほど自然に詰まっていった。

 

「そうだ!次の週末、もっかいそこ行ってみようぜ!」

「え…?あそこ、気味が悪くてあんまり行きたくないんだけど…。」

「いいじゃんいいじゃん!行ってみようぜって!なっ!依莉も行くだろ?」

「いいね!面白そう!」

 

こうなったときの相沢は強い。

周りの人間を巻き込んで場を制してしまうような、人望、だろうか、そんな魅力がある。

今にして思えば相沢にこの話をした時点で読めた展開であったが、あの日見た光景へのどこか拭えない好奇心が、無意識にこうなることを望んでいたようにも思えた。

 

「じゃあ、決まり!次の土曜、10時に "レモン屋" の前に集合な!」

 

僕の返答など聞く間もないのはいつもの調子で、それよりも気になったのは依莉がいつにも増して乗り気なことだった。

ひとしきり話し終える頃に始業のチャイムが鳴り、教壇に構えていた担任の先生が着席を促す。

 

「ほーい、じゃあ始めるぞー。相沢と寺丸、早く席に着けー。」

 

名を指された2人がつまらなそうに返事をすると、席へと戻っていく相沢を背に、依莉が僕に耳打ちをする。

 

「週末、楽しくなりそうだね。」

「……?そうだね。」

 

呆気に取られる僕を尻目に、依莉はいつもよりほんの僅かにだけ大きく身体を上下させながら自席へと戻っていった。

 

その週の土曜、僕はひと足先に約束の "レモン屋" に来ていた。

レモン屋は正式名称を "Lemon Gadgets" といって、家庭用の小型AIロボットを中古販売している店だ。

店の看板にはレモンの絵が描かれており、子供たちの間では "レモン屋" の愛称でしばしば待ち合わせ場所の目印として使われている。

 

店の前で待っていると、約束の時間が近付いた頃に依莉が到着する。

 

依莉「わっ!」

僕「わぁ、びっくりした。」

依莉「どこが!?全然びっくりしてないじゃん!?」

僕「建物の裏から回り込んでくる前に気付いてたからね。」

依莉「なーんだ。相沢くんは?」

僕「うーん…まだみたい。あいつが一番張り切ってたのに。」

 

そうして10時を少し過ぎた頃、息も切れ切れの相沢が遠くから手を振って現れる。

 

相沢「ごめんごめん!母親説得すんのにちょっと手こずっちゃってさ!」

依莉「来て大丈夫だったの?」

相沢「いいってことよ!親愛なる友人たちのためじゃないか!」

僕「なんだそれ。行くなら早く行くぞ。」

相沢「おいおい、夏だってのに冷たいじゃないの~。」

 

いつの間にか先頭を立って歩く相沢の背を見ながら、件の廃墟へと足を踏み入れていく。

 

相沢「この先、どっちいけばいい?」

僕「ああ、ごめん。案内するよ。」

 

鉄柵沿いにあばら屋の通りを往き、旧道へと続くトンネルに入る。

長いトンネルを歩き進み、目が眩むような光の差し込むその向こう側を見遣ると、白く巨大な建物が視界に飛び込んでくるのだった。